きじまのこだわり

日本大漁物語

はじめに

日本は島国で、全国には、無数の「浜」がありそこで獲れる魚が一番旨いとされる名物が数多くあります。九州の佐賀県唐津市は現社長きじまの先代の出身地です。唐津には玄界灘があります。ここで獲れる剣先いかは、大変名物で、その味は天下一品!

今から45年以上前、きじまが小さい頃、両親と唐津へ墓参りに行った時には決まって連れて行ってもらった活魚料理屋がありました。その店では、「剣先いか活造り」の注文が入ると、いけすから網で揚げてすぐにさばいてくれたものでした。きらきらと透明に輝くきれいな身で、コリコリした食感に甘味と旨味のあるいかです。

その店では、ほかにも、おこぜや、石鯛、あじなど、注文にあわせて活け造りにしてくれて、 きじまはいつも、子供心にもわくわくし「お刺身っておいしいな、楽しいな」と感じていました。

きじま創業のころ

昭和50年代、戸塚駅前で洋品店を営んでいた先代が、店を居酒屋に業態変更したのを機に、現きじまが先代のあとを継いで、何の修行もないままに厨房に入ったのは、18歳の頃でした。無我夢中で仕事をする毎日が続くなか、たった一人の頼りにしていた板前さんは突然いなくなってしまい、あとにはきじまを信じて入社したばかりの18歳の社員が一人と、数人のバイト生だけが取り残されました。窮地に立たされたきじまは、必死の思いで、本を見ながらメニューを作り、皆を励ましながら営業をつづけていました。

どんなに苦しくても決して弱音を吐かない、明るさを常に忘れないあきんど精神は生来のもので、スタッフたちも、皆きじまを信じてついてきました。その時代、周りには居酒屋チェーン店がぽつぽつと出来はじめ、せっかくひいきにしてくれたお客様もすぐに引き潮のように新しい店へ取られてしまうことの繰り返しでした。

自分たちの今のやりかたのままではいずれ限界がくると感じていたきじまは、幼い頃の、あの活魚の活け造りを食べた体験から、生きた魚を扱ってみたい、自分の店で、お客様に活魚のおいしいお刺身を食べていただきたいと思い始めました。そこである日いつも仕入れに行く市場の魚屋から、思い切ってはじめて活けの「常磐産石ガレイ」を一ぴき仕入れてきました。

大きな発泡スチロールの箱にブクブクさせて運んできた時、きじまの嬉しそうな顔を前に、スタッフたちは大きなカレイを覗き込んで、すごいなぁ、高そうだなぁ、という表情を浮かべていました。興味深々のスタッフが見守るなか、さっそくきじま自らさばいてみると、身の引き締まり方やきれいさ、美味しさもから、格段にいつもの鮮魚とは違う。スタッフたちも一口食べてびっくり、皆活魚の素晴らしさを実感しました。

活きた魚から作る刺身は当然うまい。さっそくその日のお客様に召し上がっていただいたところ、『これ、うまいね~』と大喜び。お客様の笑顔を見て、きじまをはじめスタッフたちも大いに喜びました。

浜との出会い

それからほどなくきじまは「お客様にもっと喜んでいただくため」魚を直接「浜」から仕入れたいと考えました。思い立ったら即行動です。そこで4時に起きて長靴を履いて浜へ出かけるようになりました。漁師さんに勇気を持って直接魚を買えないかと交渉をする日々が長く続きました。

どこの馬の骨ともわからぬ若者が「魚を売ってください」と言うのです。最初はろくに相手にもしてもらえませんでしたが、なんとかうまい魚をお客様に提供したい、魚を食べるなら”きじま”だねと言っていただける店にしたい、その思いが情熱となり徐々に漁師さんに通じるようになりました。

漁船が岸壁につくやロープを取ったり、魚の荷下ろしを手伝ったりしながら、漁師さんと会話も弾むようになり、徐々に心が通じるようになったのです。そこできじまは漁師さんの苦労や努力、そして人情味あふれる温かい心に触れる事が出来、魚をとおして様々な事を学んだのです。また、魚の目利きの仕方から、浜特有の魚の買いかたも教えてもらいました。

その後、だんだんと苦労が実り、あっちの浜からこっちの浜からと、少しづつ魚が買えるようになりましたきじまは自ら軽トラックの荷台にダンベという海水を入れた大きな容器を積んで、近隣の浜から、活魚を仕入れそこへ泳がせて運び始めるようになっていました。

お客様の笑顔を見て、きじまをはじめスタッフたちも大いに喜びました。

活魚料理屋として

活魚を扱うということは同時に、店に水槽が必要ということです。初めてのことだらけ、お金も無いなか、大きな試練を乗り越えるためきじま、スタッフたちも営業の合間をぬって、活魚の扱い方、水槽の管理の仕方などを必死に勉強しました。きじまは銀行と交渉し資金を借り入れました。

試行錯誤の中、ある水槽業者の方と知り合う事が出来、何度も検討を重ねた末、店頭に大きな水槽、カウンターには魚種別にいくつもの水槽、そして厨房内には、これまた大きな水槽がデンとある、今思えば、店はちいさいのに水槽だらけのちょっと風変わりな店へと改装する事が出来ました。 さあ、この日を境に、水槽の中には日に日に魚種も増えてゆき、さながら水族館のようになりました。

町行く人も珍しそうに覗き込んでゆきます。浜では、まんぼうや、ねこざめも、たまに網に入ることがあります。サービス精神旺盛なきじまは「道行く人も喜ばせたい」と、おまけに仕入れてきました。

スタッフたちは、日に日に魚の扱い方も上達し、さばくスピードも上がってきました。また、きじまが教えてくれる魚の知識や浜の話に熱心に耳を傾け、魚を食べていただくお客様に、その魚にまつわる話しをしました。お客様も魚種豊富な海の幸と、スタッフの威勢のよさに大喜びで、舌鼓を打って下さるようになり、店は活気に溢れ心がひとつになっていました。

きじまの名物「海幸盛」が誕生したのはこのころです。

それまでの活魚料理屋にありがちな「あじの活け造り一杯2000円」「石鯛の活け造り一杯8000円」などというお客様にとってつまらない売り方はしない、せっかくいろいろ仕入れているのだから、たくさんの種類の魚を、漁師さんのもてなしのように豪快に召し上がってもらおう。という、お客様の喜びを一番にするいかにもきじまらしいやりかたでした。

活いか輸送への挑戦

さて、このころきじまが次に考えていたことは、幼いころ驚きとともに味わった、「活け剣先いかの姿造り」を戸塚のお客様に食べていただきたい。生きたまま九州から輸送したいという大きな夢です。きじまの熱い思いを知り、スタッフたちもその夢に賛同してくれました。この夢をかなえるためには、どうしても自分たちの活魚車が必要でした。

大型活魚車の登場です。活魚の輸送のための人材も揃い、いよいよ活けいか輸送が始まりました。

ちょうどその当時、三菱重工で海洋水浄化研究をされていた方と知り合うきっかけがあり、その方の研究のためにも大いにこの「活剣先いか輸送」がお役に立てることがわかり、一緒に九州唐津へ行ってもらったり、お知恵をお借しながら、活魚車に様々な創意工夫を凝らしました。

しかし、輸送をはじめてみて、早速大きな壁につき当りました。いかは、元来大変デリケートな魚でストレスに非常に弱く、墨を吐いたり、弱ってアガって(死んで)しまう事が多々あるからです。あまりにリスクが多いので、「運べて大阪までだね」といかの漁師さんたちに言われていました。

輸送の苦労は何年か続きました。スタッフたちは、きじまを信じ、店を守りながら待ちつづけます。今回は、大阪まで来たところで全滅した。今回は名古屋までだった。大阪で3時間止まっていかを落ち着かせてまた走ったけどだめだった。今回は休憩を入れて、水温、酸素の調節をしながらまた走ったが浜松で全滅した。

何度も九州からの輸送にチャレンジしつづけ、私たちはついにその日を迎えることが出来たのです。

1990年に、関東で初めて九州からの活きた剣先いかの輸送に成功し、店頭で活魚車の水槽を泳いでいる剣先いかを目のあたりしたスタッフたちは歓声をあげました。お客様も何の騒ぎだとびっくりして出てきました。『へえー九州から活きたまま運んできたの?!』『はい!』『すごいね~!今日食べたいなぁ』『はい!』『うまいねー!!』『九州から来たいかが、ここで食べられるなんて感激だよ!』『えっ、姿の方は後で天ぷらにしてくれるの!』『うまい!うまい!』と、活けいかを召し上がったお客様は、それはそれは大喜び。

今現在の店舗にも、全国各地のいかが泳いでいますが、この活いかの輸送から得た技術が確実に生かされ今も私たちの誇りとなっているのです。

私たちの日本大漁物語

きじまが先陣を切って行ってきた浜から直接仕入れるスタイルは今も変わりません。活魚部が独自の「浜のネットワーク」を駆使して魚の情報を取り、毎日元気に活魚車を走らせています。そして店では、スタッフたちが、いつもきれいな水槽で、魚を迎え、さばきたての活魚を浜の臨場感たっぷりに盛り付けます。フロアでは日々多くのスタッフが、おもてなしに一生懸命取り組んで、活気ある声が飛び交います。

日本は島国で、四方を海に囲まれています。その海からのすばらしい恵みが、うみさちです。日本人は太古の昔から魚を食してきた民族です。DNAにうみさちと刻み込まれているのです。旬の魚は、その季節を迎えた私たちの体に必要な栄養、うまいと感じる滋味を持っています。その魚を命をかけて獲ってきてくれる漁師さんや浜の人々、魚の輸送をする者、料理を作る者、おもてなしをする者、これらすべての人たちが、私たちのおもてなしになくてはならない大切な仲間です。

私たちが、豊かで大きな海のめぐみであるうみさちを大切に扱い、その鮮度感を最大限に生かす「海幸盛」にし、特別な思いを込めてご提供したい訳はここにあります。

私たちの日本大漁物語はこれからも続いてゆきます

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